うんこみたいな日々

を過ごす。

見た目が人間なもんで皆人並みに相手してくれます

「イイヨ」
「ハイ」
「ソウダネ」
ロボットのような無機質な口調になってしまう事がある。これは無理してタメ口を使う際に全裸コミュニケーション(←心を開いて会話すること。言いたかった。言ってみたかった。)へ踏み切れず方言の関西弁でいこうか標準語でいこうかという葛藤から生まれる私特有の言語だ。


児童館で働いていた時、子どもに言われた。


「先生は中国人ですか?」
「ん?え、なんかおかしかった?」
「うん。喋り方がおかしい。」


なかなかやるではないか小僧。俺の第二言語を見破るなんて。


子どもの前では嘘がつけない。全てを見透かされているようなセンサーが働く。特に小学生低学年。なので自分もフルチン精神で立ち向かうという訳だ。
しかし、そんな状態を思考力の発達しすぎた大人の前で持続できなかった。その隙を子どもは見逃さない。


敬語はとても楽だ。盾を持ちながら戦っているような安心感がある。
馴染みとの会話も楽だ。全裸で走り回るような解放感がある。


敬語の距離感で無理矢理タメ口を使うというのは盾を持っているのに全裸という事だ。おかしい。だって防御したいのになんで服着てないの?ち〇ちん出てるよ?


そんな感じだ。


緊張して"コミュ障"と直接言われないようにとても気を張っている節はある。


自然な会話とはどのようなものだろう。友人と話した最近の電話を思い出す。

ex.1
友「もしもし」
俺「君がエレン・イェーガーくんかな?」
友「はい?」

ex.2
俺「もしもし、はい?」
友「はい?」
俺「どうされました?」
友「いやあなたが掛けてきたんですよね?」

ex.3
俺「もしもしという事になりますよね。電話をかけたのだから。」
友「そうなりますね。」

ex.4
友「もしもし」
俺「おっぱい」

ふざけている。緊急の用でない限り間違いなく冒頭はふざける。そして最後のおっぱいを除いて全て敬語だ。全裸である事を逆手にとってあえて盾を構えている。
まともに話すときは標準語も関西弁もタメ口も敬語も無意識に融合しているけど、気にしてないから細かく覚えてない。


無理にタメ口を使うより、距離感を考えながらふざけてみると本来の調子が出てくるのかもしれない。馴染みのキッカケも確かそんな感じ。そのために、まずは相手を知る事だ。
やってみようと思う。


以前、言語改革に励んだのはやはり「タメ口で喋ろうよ」と言われた時だった。
いつものごとく慣れたらそうするよと言いながら、そもそもタメ口を使わないで"慣れる"なんてできっこない。

そして堅苦しい言葉遣いを続けた後、また言われる。

「タメ口で喋ろうよ」

先輩に相談した。仲良くなるために喋りにくい言葉を無理して使う必要があるんでしょうか?

理解していた。自由に言葉を使いたいのなら、この悩みに理屈など存在しない。

泳ぐ事はおろか、水面に顔をつける事すらできなかった小学2年の俺と同じ状況だ。友達の親御さん同伴でプールへ遊びにいった時、水に怯える自分の頭を掴んで悪ふざけで水面に叩きつけた友人が親御さんに怒られた。泣きながら自分でも顔をつけない事には一生泳げないと知っていた。

荒治療が必要だ。そんな思いを汲み取った上か先輩は背中を押してくれた。

「タメ口でいいって言われた機会を逃すと一生切り替えるタイミングないんじゃないか。」


当時、タメ口で喋り散らかした相手は今でも気の知れる友達だ。


理解してくれなんて言わない。


頑張って今日も喋る。